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ぼくのお勧め本です

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2007年10月29日 (月)

「時の少女」

 上野国立博物館内に設置された特設映画館「一角座」にて、内藤誠監督「時の少女」を見にいく。トークイベントがあったが、あいにくの台風接近で嵐のなかを上野公園に。ズボンがびしょぬれになりながら一角座到着。荒戸源二郎プロデュースで、鈴木清順原案で、佐々木守・内藤誠脚本、自衛隊の海外派遣が話題になった時期、自衛隊を脱走した若者が、東京の下町で出会う不思議な人々…。監督自ら、おかしな映画といっていたけれど、80年代の初め頃には、こんなに自由な空気に満ちた映画をつくることができたんだなあという感慨をもった。ターゲットやマーケティングということが当たり前の現代の映画づくりからすると、その自由さや奔放さに驚かされる。

2007年10月26日 (金)

「さくらんぼ・母の愛」「レカドス食堂」(東京国際映画祭)

 東京国際映画祭・アジアの風で、「レガドス食堂」(フィリピン)、「さくらんぼ 母の愛」(中国・日本)などを見た。「レカドス食堂」は、スラム街で食堂を営む親子孫、3代の女たちの物語。料理を媒介にして、女たちの生き様、その歴史を語る語り口は、軽妙。アドボやカレカレなどのフィリピンの家庭料理のレシピが紹介されるのが新鮮だが、料理と女たちの描き方は雰囲気があって、見ているうちは飽きないけれど、ストーリーがやはり散漫な印象。監督のパオロ・ヘラスは26歳という若い監督だから、今後の作品が楽しみではある。
「さくらんぼ・母の愛」は、日本に留学して17年で、チューヤン主演の「歌舞伎町案内人」など、日本でも活躍中の監督。張加貝監督の友人に誘われて見に行ったのだが、堂々たる風格と味わい深い映画だった。中国の農村の風景やそこに暮らす貧しい農民たちのささやかなでつつましい生活、遠い昔の四国での少年時代を思い出さされた。なんといっても、主人公で知恵遅れの母親を演じたミャオ・プゥの演技が光る。チャン・イーモウ監督の「初恋の来た道」の脚本を書いたパオ・シーさんも来日しており、サインをしてもらった。地方を舞台にした美しい物語を書く人は、穏やかな笑顔の人だった。この作品は、張監督の代表作の一本になることだろう。ヒットを願っている。

2007年10月25日 (木)

ファラフェル(東京国際映画祭)

 今年も東京国際映画祭に数日間出かけて、いくつかのアジア映画などを見た。今年は中東国の映画が充実していた。ぼくが見たなかでは、レバノンの「ファラフェル」という作品が面白かった。監督は、一見平和に見えるレバノンの現状は、じつは危ういバランスの上にあるレバノン内戦から15年目の戦後を生きているのだという。主人公は、ベイルートのの大学生、ある一晩に起こったさまざまな事件が、いまのベイルートをメタフォライズする。駐車場で、車に傷をつけられたという言いがかりから、理不尽な暴力に遭遇し、友人たちに慰められ一旦は仲間たちと引き上げるが、鏡に映し出された顔の傷を見るうち、暴力をふるった男に対する憎悪がふたたびよみがえり、仲間の目を盗んで深夜の町に舞い戻り、報復のためくだんの男を捜し求める…。しかし、その報復への熱情はさまざまな事柄のなかで空回りしていく…。「暴力の連鎖、そしてそれを断ち切るには暴力では解決しない」と、監督はティーチインで語っていた。しかし、映画はそうしたメッセージを伝えるためではなく、そうしたレバノンの若者の心情を描くことに心を砕いている。ヤマハのバイクの後ろに美しいガールフレンドを乗せて深夜の商店街を走り抜ける映像は、どの国にも共通する青春映画である。ベイルートがどんな町なのか、ほとんどテロや内戦のイメージという乏しいイメージしか持たない僕は、当たり前のことながら、ここにも、私たちと変わらない青春があるのだということを気がつかされたこと、そして暴力への衝動を抑制できない人間というもののどうしようもない性など、この映画がレバノンの映画という、僕らにとっての特殊性ではなく、映画としての普遍性を獲得しているという気がした。

2007年10月14日 (日)

佐藤真の遺稿

 佐藤真さんの偲ぶ会からしばらくたった。ふと立ち寄った本屋で「現代思想」のドキュメンタリー特集を目にし、巻頭に掲載された佐藤氏の遺稿となった「ドキュメンタリーもフィクションである」を読んだ。タイトルのとおり、ドキュメンタリーといえど、それは作家によって切り取られ編集、再構成されたものであるから、真実を写し取ったものではないということに尽きる。これは、作り手側にとっては自明のことなのに、あえてそれを口をすっぱくしていわなければならないのは何故か。ドキュメンタリーの可能性が、たんにジャーナリズム的な告発やうすっぺらいヒューマニズムだけだったとしたら、なんともつまらないジャンルに墜してしまう。しかし、いつまでたっても一般にドキュメンタリーは、現実をうつしとる報道的側面だけで語られることに対する苛立ちが、上記の意思表明となったのだろうと思う。しかし、そのことは、作品でしか示し得ないことを知りつつ、なお語らねばならなかった。
リンダ・ハッテンドーフの「ミリキタニの猫」は、そんなことを考えるときに、とても面白いテキストだろうと思う。

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